LOGIN―― 休題 Cの回想録 ――
何て腹の立つ奴だ、というのがシリルがイレヱヌに対して抱いた印象だ。 シリルは産まれながらに総てを与えられた人間だった。銀の匙を咥えて産まれた処か、しゃぶりついて産まれてきた状態だ。ベネディクト家は英吉利で旧くから存在する家柄で祖先は王族とも血縁関係にある事が実家の羊皮紙で作られた家系図のタペストリィからも確認出来る。富、名誉、地位という総ての人間が欲して止まない者を自分は産まれながらに持っている。そして、シリルは何もない、空っぽな人生を歩んでいる事も日に日に気付く事になった。 朝食を摂りにイレヱヌはこの件を誰にも言うつもりは無かった。たとえエドワアドであろうとジャンヌであろうと。ましてやセシルには。あんなことがあったなどと口にすることすら屈辱的だ。そして口にしようとするだけでまた全身を蛆が這うようなおぞましい不快感を思い出してしまいそうだからだ。 「お前、モデルしてるんだってな」明くる日、サン=ポウルのビュッフェでシリルにそう声をかけられる。「うん」言葉少なにイレヱヌは返答した。なるべく考えたくは無い。この日はセシルが仏蘭西で仕事をしていた。 「大丈夫なのかよ」「大丈夫って何が」「ファッション業界がえげつない実態なことくらいは俺でも知ってるぞ」シリルの方を見ると、真剣な顔でイレヱヌの事を見詰めている。この表情で見詰められるのは“シラノ・ド・ベルジュラック”の舞台終わり以来かもしれない。 「大丈夫よ」そう言ってイレヱヌは微笑《わら》いかけた。「何かあったら絶対に誰かに言えよ。一人で抱え込むなよ」「分かってる。ありがとう」其処までシリルに心配されていたとは思わなかった。シリルが此れ程心配しているなら、両親やセシルにはもっとかもしれない。イレヱヌは周りからどう思われているのか心配になってしまった。それともシリルはまさか何かに勘づいているのだろうか、その考えが頭を過り、総毛立つ。シリルが若し勘づいてしまったとしたら、セシルに気付かれてしまうのも時間の問題だと思った。あんなこと恋人には世界一気付かれたくはない。 次の日、セシルがイレヱヌの部屋にやってきた。「久しぶりだね。イレヱヌ」気のせいか表情が堅い気がする。「久しぶりセシル。お仕事はどうだった?」イレヱヌはわざと明るい声を出した。(セシルに心配をさせないように振る舞おう)自分に言い聞かせ、紅茶を淹れようとする。 「イレヱヌ、“シェ・レジーヌ”の事どうして僕に言ってくれなかったの?」首筋から氷の塊を滑り落とされたような錯覚に陥る。「何の事……」「彼処はフランソワーズやフランソワーズの友達が良く利用してるんだよ」頭が真っ白になる。そういえば“パリ・マッチ”には頻繁にサガンとブリジット・バルドーがディスコやカジノで夜遊びする姿が載っていた。「僕は、そんなに頼りない存在なの?」はっとしてセシルの方を見ると、悲しそうな眼をしていた。ふう、と息を吐き出すと「どうしても知られたくなかったの…
モデルの仕事は順調そのものだった。将来の事で散々悩んだ時期を思うと拍子抜けする程簡単だった。広告、雑誌に起用されてようやっとポージングや表情にも慣れた。ウォーキングは何度も練習をする内に服を映えつつスタイルを良く見せる歩き方というものが身に付いてきた。勉強にモデルにと忙しいため、セシルと顔を会わせる時間が減ったのが唯一残念に思う事だ。セシルも夜のキャバレーやショークラブなどで歌う事が多くなったからだ。思わずその事をセシルに話すと「僕も淋しいよ、イレヱヌ」とセシルが淋しそうに微笑んだ。 そして仕事に慣れていく内にファッション業界というものの“常識”を学んでいった。モデルなど所詮は動くマネキン。所謂“枕営業”なんて珍しくもない。体型維持のためならドラッグだって平気でやる。知れば知るほど失望の連続だった。(此れがあたしの居場所なのか……)そう落胆もするが、それでもしがみつくしかない。(だって、あたしは此れしか出来ないんだもん)ようやっと見つけた自分の居場所と言えるものだったのだから、求められる限りは此処で戦いたかった。コンプレックスの反動で半分意地になっていたかもしれない。もう先の見えない未來に鬱屈した思いを抱えるのは御免だった。 イレヱヌには理解が出来なかったが何故かデザイナーのパーティーに出席するのはこの世界では常識らしい。「どうしてもデザイナーが出席して欲しいって…。頼むよイレヱヌ」エージェントに懇願されるがイレヱヌは仕事の後はゆっくりしたい。幸運なことに今巴里にはセシルもいた。直ぐに帰ればショークラブの仕事を終えたセシルに会える筈だ。しかし、この世界ではコネクション作りのためにはそういった付き合いは必要不可欠らしい。(この世界は、腐ってる)イレヱヌは自分の居場所を唾棄した。 パーティーが終わったら直ぐにアパルトマンに戻った。どうやらディスコで二次会があるらしいが興味が無い。セシルは夜中まで仕事なのでまだいない。部屋でふう、と溜め息をつく。ようやっと人間に戻れた様な気分だった。バスタブに薔薇の馨りの入浴剤とシャワアでお湯を張って泡風呂を作る。バスタブに脚を伸ばすとメイク汚れや汗以外の汚れも落としてくれる気がした。 (今日も終わった)その安堵がイレヱヌを包む。 (あたしは後何年此の世界で生きていくのだろう)ぼんやりと頭で考えるも、先の事は全く分から
―― 休題 Cの回想録 ―― 何て腹の立つ奴だ、というのがシリルがイレヱヌに対して抱いた印象だ。 シリルは産まれながらに総てを与えられた人間だった。銀の匙を咥えて産まれた処か、しゃぶりついて産まれてきた状態だ。ベネディクト家は英吉利で旧くから存在する家柄で祖先は王族とも血縁関係にある事が実家の羊皮紙で作られた家系図のタペストリィからも確認出来る。富、名誉、地位という総ての人間が欲して止まない者を自分は産まれながらに持っている。そして、シリルは何もない、空っぽな人生を歩んでいる事も日に日に気付く事になった。 朝食を摂りに食堂に向かうとシリルだけしか居なかった。「父さん、母さんは?」シリルが生まれる前からベネディクト家に仕える執事に訊くと「旦那様は仕事に向かわれました。奥様は外にお出掛けです」と想像していた通りの答えが返ってくる。朝、部屋の窓から父親のキャデラック・フリートウッドが家の門から出るのを見た。きっと外で作った愛人の元へいそいそと向かったのだろう。おそらく母親はそろそろ酔って朝帰りをする。両手には抱えきれないほどドレスや宝飾品、毛皮があるに違いない。二人とも自分達息子には一切の興味が無い。家庭内は完全に壊れていたのに何故か両親は離婚をする事はなく、世間の目に曝される度に、立派な政治家の優しい夫と貞淑で上品な妻という偽りの姿を演じ続けた。(うちは、完全に壊れている)シリルはある時期からそう感じた。アガサ・クリスティーの“ねじれた家”と其の引用元であるマザーグースの“ねじれた男”を思い出した。 There was a crooked man, and he walked a crooked mile, ねじれた男がいて ねじれた道を一マイル歩き He found a crooked sixpence against a crooked stile; ねじれた六ペンス硬貨を ねじれた踏み段のところで見つけた He bought a crooked cat, which caught a crooked mouse, ねじれた猫を買ったら その猫がねじれた鼠をつかまえた And they all lived together in a little crooked house. そしてみんな一
そうこうして数日過ごしている内にパリ・プラニングから連絡が来る。早速仕事の話だった。自分は事務所に所属しているだけの素人だったのでこんなに直ぐに仕事が来るのかと驚いた。休日を使って仏蘭西に行くことが決まった。兎に角セシルから離れたい。セシルの事など考えたくも無かった。 巴里に来たのは一ヶ月も経っていない筈だが、何故か遠い昔の事に感じた。イレヱヌはマドレエヌ寺院近くのトロンシェ通りにあるパリ・プラニングのオフィスにいた。予想通りスカウトマン、社長二人ともジャンヌ、エドワアドの事を知っていた。初めての仕事は新規のブランドのイメエジ広告の撮影だった。 「まあ!写真で見るより美しいわ!若い頃のジャンヌよりも綺麗かもしれない……」案の定、ブランドのデザイナア、シルヴィ・ペロウはジャンヌの事を知っていた。赤い風車時代に衣装デザイナアをしており、其処から交遊を深めた仲らしい。「何時かイレヱヌとも仕事をしたいってジャンヌと良く話してたわ」衣装合わせをしながらシルヴィは楽しそうに話した。イレヱヌは何も言わずに微笑んだ。(あたしの人生は結局ずっと此れが続くのだろう)イレヱヌは諦観してそう思う。(でも、此れはどうすることもできないことだし。そもそもあたしの親が普通の人だったら此の仕事は貰えなかっただろうし)顔にメイクを施されながら誰に言うでもなく言い聞かせる。そして撮影が始まった。 イレヱヌの顔は普段よりさらに真っ白になっていた。まるで巴里の日曜日の蚤の市で眼にする陶器人形のような顔だ。鏡を覗き込んで思わず笑ってしまう。衣装はフープスカアトとコルセットの部分が敢えて剥き出しになったドレスだった。正面はミニドレスに見えるが後ろは裾が床を引きずる長さに作られている。足元は薄手のストッキングにガーターベルトを履いた。頭は高く盛り上げた髪型を模した鬘を被った。鬘には船の模型や駝鳥の羽根、薔薇等が付けられているため、鬘の中は空洞とはいえそれなりに重い。十八世紀の極端な華美さと、十九世紀の退廃的な雰囲気からインスピレエションを得たもののようだが、今の時代の感覚ではファッションというより身につける芸術といったものだった。撮影現場には|蚤の市《ブロカント》で見つけたと思われる巨大な全身鏡や
サン=ポウルでの学園生活が再び始まった。 旅行は楽しかったが此処に居るのも気持ちが落ち着く。 今後は学生生活を送りつつモデル活動も平行してやっていくため、学院に特別補講の申請をする。主に芸術、スポーツ、役者など外部での活動を精力的に行う生徒のための教育制度の一環だ。 校長のシャルル・ボドリィからは「モデル活動をする生徒はイレヱヌが初めてですよ」と微笑いかけられ、少し誇らしいような照れ臭いような複雑な気持ちになった。学生生活女子寮の談話室にある衝立で作られた小さなソファや卓子のある空間で小説を読んでゆっくりとしていると 「ねえイレヱヌ、春休みはセシルと旅行に行ったんだって?」と声を掛けられる。同級生のアンヌ・ベッソン、ジュリエット・サンダースだった。 「うん。オリエント急行に乗ったの」とイレヱヌは同意すると、「ええっ飛行機じゃなかったの!?」とアンヌが驚いた。オリエント急行は今は斜陽なのだから当然だ。「アガサ・クリスティの本を読んでどうしても乗ってみたくって」と云うと「良いなあ、楽しそう!」とジュリエットが目を輝かせる。「凄く楽しかったよ。インテリアは素敵だし、食事も美味しかった!あとヴェネツィアは綺麗な街だから若し行ったことがないなら一度は行くべきだと思う」とイレヱヌが力を込めて語ると二人とも興味深々で耳を傾けた。 「オリエント急行か……私は行けるかな……」とアンヌがぽつりと呟いた。とても淋しそうな顔をしている 「アンヌは行けないかもしれないの?」と不思議になり訊いてみると「私は卒業後に結婚するかもしれないから……そうなったら気軽に自由な旅行は楽しめないと思う」と言うので驚いた。「そうなの?てっきり大学進学かと思った」というイレヱヌにジュリエットが「アンヌの家は女性は学生の内に婚約、結婚するのが代々の習わしらしいの」と答える。「今時そんなことするんだって驚いちゃうよね」と肩を竦めるジュリエットに、イレヱヌも頷いて同意する。そして結婚後に其れほど自由が制限されてしまうと考えているアンヌが哀しかった。「イレヱヌが羨ましい。好きな人と恋人になって二人で旅行に行けるなんて」アンヌが哀しそうに微笑んで、ジュリエットが慰めるように腕を撫でた。自由に恋愛をして、自分の進路を進むことが此の世界では当たり前では
「イレヱヌ、モデルになるんだって?フランソワーズから聞いたよ」セシルが目を輝かせながらイレヱヌに訊いてきた。もう知られているのか、と思いつつ「まだ決まった訳じゃないよ」と否定をすると「何で?勿体無いよ。イレヱヌなら絶対に成功出来るよ!」とセシルが断言した。 自分以上に自分の事をセシルが信じてくれている、という事実がイレヱヌの胸を熱くする。セルジュ・コクトオと名乗ったパリ・プラニングというモデル事務所のスカウトマンは案の定イレヱヌの母がジャンヌだと知っていた。恐らく其れも理由で声をかけたのだろう。寧ろ其れが理由かもしれない、とイレヱヌは推察した。人前で服を着て歩いたりポージングを取る仕事はマヌカンしか無いと思っていたが、現在はファッションモデルとして仕事があり、役者や歌手のように事務所に所属するのが普通ということをイレヱヌはセルジュと出会って初めて知った。時代は随分と変わったらしい。 ただしモデルの世界では180cmはあるのが普通だがイレヱヌは177cmだ。ランウェイで歩いたら相当みっともないだろう。そして両親の七光りのお陰で仕事を取っていると陰口を叩かれるのも目に見えている。「そうとは限らないよ……。ママやパパの名前が出されそうなのも厭だし」と思わず弱音を口にすると「でもイレヱヌ、其のパパやママの事を引っ括めてイレヱヌじゃないの?」セシルはイレヱヌの目を真っ直ぐに見据えながらそう言った。 「“機会が二度も扉を叩くと思うな。”って言葉知ってる?こんな機会もう来ないかも知れないよ?」セシルが真剣な顔で語りかけてきた。 (其れは間違いない)イレヱヌは勿論その事は理解っている。興味が無い訳ではない。単に自分は臆病者なだけなのだ。逃げる理由が欲しかった。「取り敢えず、パパとママに報告しなくちゃ」 「おめでとう、I。本当に凄いわ」電話越しにジャンヌの高揚が伝わってくる明るい声が聞こえた。実家に電話をしたところ、アンリエッタが電話に出た。理由を簡単に説明し両親に取り次いで欲しいと簡単に伝える。アンリエッタは「おめでとうございます。イレヱヌ様。」と言った後にジャンヌに変わった。母は何時まで経っても少女のようだった。マリリン・モンローが演じる妖艶な大人の女と無邪気な少女のような内面が同居している人間だった。 「セルジュか







